座右の銘は「自分に甘く。他人にも甘く」の藻の日常のアホネガティブログ。
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脳死は人の死、だと、いう。
可決がなされましたですね。
色々むつかしいことで、頭の弱い私にはてんで理解できないことも多いのですが。
やっぱり対岸の火事というのか、距離が離れていることなぶん、
私のあまりすきでない、客観視、というものが出来てしまう。
という前提での話。
一先ず、脳死が人の死、と法律で定めるのは、オカシイのか。
オカシイとは思うけれど、仕方ないとは思う。
今回の脳死云々の可決事項に対しては、珍しく国会議員もいろいろ苦しいんだなと思いました。
真摯に向き合っている、と、思った。なんかわかんないけど。
A案に反対した人も、賛成した人も、棄権した人も、
それぞれ複雑な思いがコメントににじみ出ていたと思う。
宗教的に、とかそういうことじゃなくても、
人、を超えた決断というか、判断であるから、であると。
ある種、裁判官のような。
断罪する立場にいない人間の、断罪を便宜的に委託された人間の、
正解の無い投票であるから。
反対も是、賛成も是、棄権も是。
反対も否、賛成も否、棄権も否。
決められることではないことを、決めなければいけない人たちって、大変だ。
どっかのセンセが云うように、日本人が未だに心臓の死=人の死という思想から離れられないのは、昔からの風俗的宗教観があるから、
というのも、ないことはない、とは思うのだけれど、
やっぱり、私が思うにそれは「熱」だと。
思う。
脳死を認めるのに踏み止まるワケは。
触れたり、近づいたときの、あったかさが、失われるときが、
死
だと、
なんとなく感じているからじゃないのだろうか。
いのちはあたたかいものだ、なんて、くさいかんじで云うけど。
これはけっこう、そうなんじゃないかと思う。
それが血流がドーノ鼓動がドーノとかは、その、原因が如何かっていうのは、後の話で。
つめたくなったら、死んでる。
みたいな。そんな本能がある気がする。
少なくとも私は。
死は硬い。そして冷たい。
死体に触れたとき、生前どんなにいとおしんだものであっても、
それはそのひとじゃなかった。
私がそれを感じたのは、猫ですが。
今まですごく好きだった、でも、その死体は、全然愛しくなかった。
カチコチになったそれはただの、モノでした。抜け殻。
ヒドイ云い方ですが、価値の無いものでした。
この感覚が、人間を守っているのかと思います。
抜け殻まで愛しくて仕方なければ、葬儀なんて出来ない。
熱が失われれば、それは。
私はそういう風に考えてしまうので、やっぱり脳死は受け入れられないと思います。
だってまだ、あったかいのに。
というか、脳が死んでも心臓が生きていられる、という、病床がまず不自然なんだ。
脳が死んだら、心臓も止まる。
心臓が止まったら、脳も死ぬ。
そういうふうに、できているはずなのに。
そうだったなら、何も問題なかったはずなのに。
結局は自業の中からしか問題は発生しない。
皮肉にも。
移植がドーノって話に関わってくるので、脳死云々の決断だけの問題ではないと思うのですが。
移植に関しては、全面的に大反対なので、あまり考えることも無いです。
他人の一部を自分の一部に侵食してまで、生きていようと思うものかね。
体外受精とか、精子保存とか、
細胞再生とか、クローンとか、
生理的に。
今の医学の向いている方向は気持ちが悪い。
古臭いんですね。私の脳も。
新しい時代のものに、交換してくれませんか。
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