座右の銘は「自分に甘く。他人にも甘く」の藻の日常のアホネガティブログ。
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身体の中或いは、精神の支柱としてあるもの。
背骨は信用しても、自分の正当性は、信用してはいけない。
ような気がした。
誤解や偏見はあれど、どこかで自分が「正」の側であるというある種自信のようなものがなければ、
何事も行動し得ない、という、確信に似たもの…
というよりは、当然の前提としてそれがあったような気がする。
でも、そうじゃないかもしれない。
という気がした。
全てに於いて、自分が、「誤」であるということ、が実際あるんだろう。
それも、自覚なしに。
もしそれが。
今まで生きてきた矮小な年数、ずっとそうだったとしたら、
それは恐ろしい話だと思う。
その可能性があるということに、今まで気付いて来なかったというのも、
恐ろしい話だと思う。
そうなのだ。
全てに於いて、理解(だと思っていたもの)は誤解であり、
確信であると思っていたものは立派な誤答であったと。
それによって何人の人間に理不尽な迷惑と不快感を与えてきたのかと思うと、恐ろしい。震えがくる。
正解も間違いもないとは云うが、
それに近似したものはあるんではないだろうか。
漸近線に近いものは。不安定なだけで。
矛盾と恣意を交互に挟んだ言動は、
全てが間違いであったと思う。
それを正解だと云ってくれるモノや、正解だと思えるモノを
探しているのかも知れないけれど。
小生の誤答の程度は、そんなモノを探すという位置にすら達していないのだ。
誤答を押し付ける厚かましさもあるような気もする。
間違っている私を、多くの人がフォローし、我慢を続けてくれたのかと
思うと。
それは重大な過失であり、内罰的であるくらいで贖罪として赦される域を超えている。
超えている。
濃度の高いどろりとした自己嫌悪とナルシシズム。
昇華は簡単なようで、他人に頼りきった感じがするなら。
それが齎す結果は、不快と醜悪と嫌悪であろうと。
あなぐらに篭るとも、粛清されないでしょうが。
償いの意味もこめて、いろいろ考えます。
恥ずかしい。
前向きに生きます。
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