座右の銘は「自分に甘く。他人にも甘く」の藻の日常のアホネガティブログ。
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ブッダが下痢で亡くなったっていうのは、
結構、すごい事なんじゃないだろうかと。
私も下痢するけれど、
ブッダもしたんだなと。
苦しかっただろうねと、近似体験をしているわけだ。
ううん。
なんだかすごいかも。
それを云うなら、イエスの痛みだって
磔にされた人や、掌に釘打っちゃった大工さんとかは
少しは分かるんだろう。
意外と神や仏は身近にあるものかもしれん。
メロン届きました。
今日早速食べようと思います。
うまく冷えてるかな。
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実家から連絡で、
メロンを送ってくれるそうです。
メロン。
メロン。
身体の中或いは、精神の支柱としてあるもの。
背骨は信用しても、自分の正当性は、信用してはいけない。
ような気がした。
誤解や偏見はあれど、どこかで自分が「正」の側であるというある種自信のようなものがなければ、
何事も行動し得ない、という、確信に似たもの…
というよりは、当然の前提としてそれがあったような気がする。
でも、そうじゃないかもしれない。
という気がした。
全てに於いて、自分が、「誤」であるということ、が実際あるんだろう。
それも、自覚なしに。
もしそれが。
今まで生きてきた矮小な年数、ずっとそうだったとしたら、
それは恐ろしい話だと思う。
その可能性があるということに、今まで気付いて来なかったというのも、
恐ろしい話だと思う。
そうなのだ。
全てに於いて、理解(だと思っていたもの)は誤解であり、
確信であると思っていたものは立派な誤答であったと。
それによって何人の人間に理不尽な迷惑と不快感を与えてきたのかと思うと、恐ろしい。震えがくる。
正解も間違いもないとは云うが、
それに近似したものはあるんではないだろうか。
漸近線に近いものは。不安定なだけで。
矛盾と恣意を交互に挟んだ言動は、
全てが間違いであったと思う。
それを正解だと云ってくれるモノや、正解だと思えるモノを
探しているのかも知れないけれど。
小生の誤答の程度は、そんなモノを探すという位置にすら達していないのだ。
誤答を押し付ける厚かましさもあるような気もする。
間違っている私を、多くの人がフォローし、我慢を続けてくれたのかと
思うと。
それは重大な過失であり、内罰的であるくらいで贖罪として赦される域を超えている。
超えている。
濃度の高いどろりとした自己嫌悪とナルシシズム。
昇華は簡単なようで、他人に頼りきった感じがするなら。
それが齎す結果は、不快と醜悪と嫌悪であろうと。
あなぐらに篭るとも、粛清されないでしょうが。
償いの意味もこめて、いろいろ考えます。
恥ずかしい。
前向きに生きます。
クラシックの音楽を、
いやその前に。前提として、
私はあまり、クラシックを知りません。ということ。
ご了解の程。
CDもなにもごちゃごちゃにして、
ランダム再生で聞くと。
どの作曲家のどの演奏家のどの曲の何楽章めから何楽めに飛ぼうが、
アンダンテの前がアダージョだろうがアレグレットだろうが、
違和感なく聞けてしまう。
ということ。
だ。
理解が薄いこと。
よく知らないからこそ聞けてしまうという。
きっと、詳しくはなくてもかじったことのある人なら、
もうメチャクチャに聞こえてしまうんでしょう。
JPOPを聞きなれない人が、
スマップと嵐の曲を交互に聞いても違いが分からない、とか
いう。
みたいなものか。
知らないということは、そのモノの中での差異化がはかれないこと、というのも一理ある気がする。
…そうでもないかな。
でも、あまりに知っているクラシック音楽だと、
そりゃ、違和感を覚えるもの。
タタタターンタタタターンタタタタンタタタタンタタタタンタタタタン♪
のあとに、
テレレレ~レレレレ~ェン♪
とこられたら、流石に「んおッ!?」と思う次第である。
すいません音痴なんで伝わらなかったですかね。
ともかく、知らぬが仏とは潜在意識の中にも融通するものかもしれない。
アダム氏とイブ女史。
なぜ知恵の実を食べたし。
サッカー、W杯出場おめでとうございます。
こんにちは。
あなたの藻です。
今日、お昼に冷やし中華を作ってみたんですが、
醤油の分量が多すぎてむちゃくちゃしょっぱかった。
そして、珍しく起き抜けに(私の場合お昼ご飯が起床後初メシとなりますご了承下さい)冷たいものを食べた所為で、おなかが壊れそうになりました。
冷たいものを健康上食べないという中国人はやっぱりすごいのかも知れない。
冷やし中華にトーフを乗っけたんですが…
冷蔵庫でキンキンに冷えたトーフって…怖しですよ皆様。
今日は、怒れる人の話。
私は自分のことを、「あんまり怒らない方」な人。
だと思っているんですが…
外目から見ると、意外とそんなことないらしいです。
某方には「すぐ怒る」と云われてしまいましたからね~
ヨロシクナイですな。
確かに、三毒でも云われる様に、
「怒るの」って。
あんまり、好くないですよね。
怒られるのが好きな人って…そりゃ世界広いですから居るのかも知れないですけど、大抵好きじゃないとは思うんです。
私も、怒られるのが怖いです。
心が弱いもので…
ガラスのハートなもので…
まぁ自分に向けられる怒りのことは、問答無用で怖いですが。
「すぐ怒る人」っていうのも、あまりよろしくないです、よ。
よろしくない部類に入りますよね。世間一般には。
分からないけど。
と、思って、いたんですが。
実はそうでもねぇのかな、と。
いや、その、怒りっぽい人、っていうのを、肯定するとかじゃなくて。
ですけど。
ただ単に極論としての対説ですけど、
「怒らない人」が果たして好いのか、って云うはなし。
それは私にとってですが。
こんなあたまのわるい大学生一個人のブログ如きで普遍的優良な人間像を語ろうとは思いませんです。畏れ多い。
確かに、まったく怒らない人、居ます。周りに。
怒りっぽい人のほうが多いかもしれないけど。
そういうひと。を、如何思うか。
私がですよ?
前までは、「ああこの人すごいな。怒らないなんて、すごいな」
って、ポジティブな評価をしていたように思うんです。
そして自分もそうあるべきなのかなと思った。
でも、最近思うのは。
何に対しても怒りを感じない人、って。
面白くねぇな。
と、
私の完全なる個人的な意見ですよ勿論。
何にも怒らない人ってつまり、何にも興味がないんじゃないかと、思う。
そうじゃないのかもしれないけど。
怒りって、ある種の、愛の表現だと思う。
好きなものをバカにされて、怒る。
自分をバカにされて、怒る。
不条理に怒る。
守りたいものがあるから、怒る。
それが他人だったり、自分だったり、モノだったり。
それがないというのは…。
気持ち悪い云い方をするんなら、
何にも怒りを感じない人は、何も愛してないってことだ。
違うのかもしれないけれど。
その人のことを知りもせずにこんなことを云うのは間違っているのかも知れないけれど。
も。
でも怒りまくるのがいいのかというのとは、ちょっと違う。
だから、「怒らない人」が好いんじゃなくて、
人を「怒らせない人」が好いんだ。
という結論に辿り着いた。
確かに、相手が怒ると、こちらも喧嘩腰になる、という循環があるだろうから、「怒らなければ」相手を怒らせることもないのかもしれないけれど。
自分が怒らない以上に、他人を怒らせてたらそれはあんまり意味がないように思う。
どちらにしろ理想の話。
現実にはあまり当てはまらないかも知れません。
もしくは当たり前すぎることを云っているのかな。
よく分からんぬです。
だから、「私はあまり怒らない」と、胸を張るのはやめようと思う。
怒りがあることを誇ろうと思う。
書いただけで出来るものならば、私はもっと好い人間だったはずだけれども(汗)
他人の怒りは、ある意味自分に向けられていなければ
ちょっと云い方は悪いけど面白いものです。
と思う。
…なんかまとまってない。
今日、大学のあるセンセとお話しました。
以前もちょこっと書いたんですが。
宗教社会学の先生で、その授業しか来ないので、
授業のあとに。
創価学会のことについて質問しました。
正直、ただそのセンセと話したかっただけだったので、
テキトーな質問だったんですが、意外と話が繋がって。
嬉しかったです。
すげー、緊張しました。
授業では性格の悪さバクハツの先生ですが、
話したら意外と、そんなでもなかったです。
ただ、先生はナイツを知りませんでした。(笑)
私は性格が善良な人よりは、どちらかというとひん曲がった方が好きなようです。